―イチゴ
何度それは自分の名ではないから呼ぶなと言っても―上級も下級も、虚たちはみんな自分をその名で呼んだ。
確かに名前がないと便宜上よろしくないのは判るけれど―自分にとってその名は、たったひとり―主君である一護だけのものであり間違っても自分のものでは無かった。
「黒崎」
いつも通りに水面を見ながらボーっとしていると、不意に背後から呼ばれて振り返る。
いつからいたのか知らないけれど、そこに立っていたのはグリムジョーだった。
―その苗字だって自分のものではないのに。
それでも下級の虚なんかにカタコトで機械的に呼ばれるのはまだそんなに気にもならない。少し遊んでやろうかという気にもなる。
けれと殆ど人間や死神と見分けがつかないような、人型で知能の高い虚なんかは(例えば彼のような)殆ど一護と区別しないで―本当に一護を呼ぶみたいに呼ぶから癪に触る。
―だから人型は嫌いだった。雑魚と戯れている方がよほどマシだと思う。
「…その名で呼ぶなっつってんだろ」
文句を言ったら、仕方ねぇだろうが不便なんだから、とグリムジョーは顔を顰めた。
「それに、テメーも黒崎だろうが」
物理的にはそうだけれど自分の気持ちとしては違うのだ―とか言ったところでこの男に同意して貰えるはずもないし時間の無駄に思えた。
「―何の用だ?」
言い返したいのをぐっと堪えて用件のみを尋ねると、グリムジョーはああ、と言った。
「…アーロニーロが死んだ」
「…」
自分のこの世界に潜り込んで来れる存在は己の本体である一護の他には―‥上中下を問わず、この男のような同属の虚たちだけだった。
どうやら自分は異常に虚たちに人気があるらしい。それこそピンからキリまで。まぁそれも至極当然のことだった。―自分がイコール一護だと解釈すればの話だが。
老若男女(含む死神)は勿論のこと、人ならざる者や畜生の類に至るまで―‥生けとし生ける者は(時には死んでいる者も)みんなみんな一護に夢中になった。殆ど才能と言っていいくらい、誰もを虜にさせる存在だった。(もちろん、この自分を含めて)
その事実からすると、自分が虚たちに好かれるのも当然だし―アーロニーロも、そんな虚のひとりだった。
しつこいくらい好きだと言うので何回か寝た。
頭も口も性格も悪かったし(まぁ自分も人のことは言えないが)別に全然好きなんかじゃないけど―
―ちょっとだけ、一護と似てたから。それだけだ。
しかも話によるとあの容姿は丸々昔喰らった虚が取り込んでいた死神のもので、アーロニーロのものですらないらしい。
まぁ自分にとってそんなことはどうでも良いことだった。重要なことはアーロニーロが少し一護と似ていたということのみだ。
―この世界の中でいちばん一護と似ているのは他ならぬ自分だというのに滑稽なことだと思う。
「―殺ったの誰?」
「…朽木ルキア」
誰、とか一瞬思って、いつか一護が必死になって助けた死神の女だと思い出した。
まぁそれも自分にとってはどうでも良いことだったけれど。
「ふーん…」
「テメーあいつとはやけに懇意だったくせにあっさりしてんなァ」
「…単にここに来る回数が多かっただけだろ。―まぁでも確かにてめぇよりは好きかもな」
「ひでー」
グリムジョーはけらけら笑って、ふと自分が覗き込んでいる水溜まりに目を向けた。
真っ暗なそれは一護に意識がない証拠だ。確か今は早朝のはずだからまだ眠っているのだろう。
魔法のようにここには一護の視界が映る。だって虚たちがそう呼ぶように―確かに自分は一護なのだから。自分のものではないその名前は、それでも確かに自分のものであることを思い知らされていつも絶望した。
自分が一護でなかったら―何の関係もない赤の他人でもいいからせめて一護でさえなかったら、まだ少しは愛される可能性もあったのに。
愛されなくても、他人なら一護は優しくしてくれる。何の関係もないそこら辺の生命をみんな守ろうとする一護なら。
もっともその事実だけで自分は世界中の生物を殺したくなるけれど。人間も死神も虚も犬も猫も花もみんな―‥
みんなみんないなくなって、この世界に存在するのが一護ひとりに―‥一護と自分だけになったら、少しは一護もヤサシクしてくれるだろうか?
「てめぇ、日がな一日これ眺めて暮らしてんのかよ?ろくでもねぇな」
「…他にすることねーんだよ」
不愉快なグリムジョーの言葉はそれでもまさにその通りだったので本当のことを言った。
自分のすることなんてせいぜいこれを眺めているか虚たちと戯れるか―あとは一護が戦う時にほんの少し力を貸すだけ。
かつて一護のカラダを乗っ取ろうとした時―自分に怯える一護を見ているのは楽しかったけれど、彼のカラダを乗っ取ったところで一護がいないのなら何の意味もないということに気付いてあっさりやめた。
自分は表に出たいわけじゃない。一護が欲しいだけだ。
だいたい乗っ取ろうと思ったのも、一護が他人なんかにボロボロにされるのが許せなかったからだ。自分にやらせてくれたら一護のカラダに傷なんかつけさせないのに―‥それだけだった。(今はもう敵も変わって事情も違うけれど)
―と、目の前の水面がゆらゆらと揺れて一護の視界をぼんやりと映しはじめた。今まで眠っていた一護が目を覚ましたのだろう。
水鏡には事実に忠実に―白いシーツの海と赤い長い髪が映った。
「…誰、これ」
「―阿散井恋次」
「あぁ、黒崎の女か」
グリムジョーはさもつまらなそうに言うとじろじろ舐め回すみたいに水面を見て、同じく水面を凝視している自分の頬に軽くキスをした。
「ソソるからンなカオすんなよ。そんなに気に入らないなら俺が殺してやろうか?―オマエの為に。」
―わざと言っている、と思った。
「…嘘つけよ。てめぇが殺したいだけだろーが。貴様が好きなのは俺じゃなくて一護だもんな」
「―だから、おまえも黒崎だろって」
グリムジョーはまたケラケラと笑って―しかめっ面をしている自分の口唇を塞いだ。
『―いちご』
いつの間に時間が経ったのか―水鏡からはテレビよろしく、阿散井がぞっとするくらい甘い声で一護を呼ぶのが聞こえた。
自分は一護だから、もちろん一護の耳に入るどんな音だって聞こえる。当然のことだ。
だからなおのこと―この忌々しい声が紡ぐこの名前と―同じに呼ばれるのは我慢出来なかった。
「…そんな目ェするくらいなら見んなよ」
殺しそうな目でそちらを睨み付けたら、グリムジョーは呆れてこちらに手を伸ばした。自分の頭に手をかけると、強引にぐるりと水面の反対側を向かせる。
てめぇ―と、言いかけてやめた。
―本当は、見なければ済むなんて生易しい問題ではない。
あの水鏡はいわゆるモニターのようなもので、単に自分の得た情報を表示しているだけに過ぎなかった。
どんなに目を閉じて耳を塞いだところで一護本人である自分には一護の見ているものが見えるし、一護の聞いている音が聞こえる。一護が考えていることだって、文字通り手に取るように判る。見たくないものも聞きたくないことも山のようにあったけれど―拷問のように逃れることは許されなかった。
まぁそんなことをこの男に愚痴っても仕方がないし―彼がたまに自分に向けるこういう拙い優しさは嫌いではなかったので黙っていた。
「―そうだ、もうひとつ言っとくことがあった」
グリムジョーは服を着ながら思い出したように言った。
「これから俺も黒崎と闘んだよ」
「―!」
驚いて飛び起きてからしまった、と思ったけれどもう遅い。―羞恥で自分の頬が染まるのが判った。
「…今度はカワイイ反応すんだな。」
グリムジョーは意地が悪そうにニヤニヤと笑った。こちらの反応なんか読んでいたくせに腹が立つ。
かわいい、なんて一護以外に言われても全然嬉しくなかった。―‥一護は、絶対に言わないし。
「てめぇほど黒崎を好きなやつはいねーな。俺より―阿散井恋次より、てめーがいちばん黒崎を好きなんだろうな」
当たり前だ、と思った。この世でいちばん一護をアイシテルのはこの自分に決まっている。
彼のナカで生まれ落ちてからずっと―‥一護だけが世界の全てだったのだから。自分には死ぬまで一護しかいない―その選択肢しか有り得ないのだから。
しょせん他人であるグリムジョーや阿散井なんかと比べられても困る。次元が違いすぎるのだ。
「…マ、それじゃあてめーともこれが最後かもな」
嫌味ったらしく―でも半分本気で言ってやるとグリムジョーはそんだけかよ、と笑った。
「そんだけだよ。せいぜいあの世でアーロニーロと仲良くしろ」
「…虚があの世なんか行くかよ。まぁ奴とは出身が同じだからおっ死んじまったらどっかで会うかもな」
「ふーん、てめーギリアンだったのか」
「そォだよ、ずっと前な。悪ィか?」
「―なんでもいいよ、てめーらの種族なんて」
「てめーなぁ…」
虚としては下級を示すその名前は良く聞くものだった。
アーロニーロは良くオレは十刃の中でひとりだけギリアンなんだぜ、とか自慢なのか卑下なのか良く判らないことを言っていた。頭が悪いから単に主張したかっただけなのかも知れない。
まぁ虚の種族なんて自分にとってはそれこそ取るに足らない問題だった。
けれど少し思う―この自分も人間でしかも自分自身である一護なんかじゃなくて、下級でも何でもいいから彼のような同属を好きになれば少しは幸せになれたのだろうか?
こんなことを考えるだけ無意味なことも知っているけど。―自分が一護から逃げられるはずはない。
「―つまりてめぇは俺が黒崎に殺られても構わねぇんだな」
「構うかよ」
「…あっそ。じゃあ逆に俺が『オマエ』を殺しても構わねぇな―?」
グリムジョーはまたわざとそう言った。
「いいけど…俺の一護がてめーなんかに負けるはずねーだろ」
カラダが同じである以上、一護が死ねば自分も死ぬ。それだけは確かだった。―けれどそれは決して悪くないような気がした。むしろそれだけが自分が一護であるということの唯一の利点のようにすら思える。
まぁ自分は所詮彼に付随している存在であるからその逆はどうか知らないけれど。
もっとも、一護がグリムジョーに負けるとは思えなかった。絶対の自信があった。
一護はどんなに傷ついて血まみれになったとしても最後には必ず勝つ。そうでなければ王などと呼んだりはしない。
「ほんと酷ェのな」
グリムジョーは失笑した。
「ヒデェのはてめぇだろ。俺を一護の代わりにすんじゃねぇ」
「やった後で言うんじゃねーよ。代わりも何もてめーも黒崎だってさっきから言ってんだろーが!!大体てめーだって俺よりずっと黒崎が好きじゃねーか!!」
「当たり前だろ」
「…」
グリムジョーははぁ、と諦めたように溜め息をついて踵を返した。
「…ああ、もう良く判った。じゃあ本番で会おうじゃねーか。せいぜい俺に殺られないように黒崎と協力しろ」
―そういえば。
考えてみたら一護ではなくて自分だけを見てくれたのはアーロニーロだけだったな、とか思う。
彼はもともと一護なんか知らなかったし―生まれつき陽の光の下では生きられないらしかった。
禍々しい自分の霊力を酷く気に入っていて―良くおまえのそばがいちばん落ち着く、なんて馬鹿なことを言っていた。
アーロニーロの口から出るのは全て陳腐な愛の言葉ばっかりだったけれど、今思うとそんなに嫌じゃなかったと思う。
―別に、悲しくなんてないけど。
ただこうして同属たちは―雑魚も十刃もみんな…死神や―時には人間に狩られて1匹ずつ確実に消えてゆくのだろう。害虫みたいに無限に湧き出しては狩られて死んでゆくだけの虚とはいったい何なのだろう、とぼんやりと思った。
それでも自分は一護が生きている限り生き続けて―その光景をずっと見続けなければならない。この先の永い永い道を、彼と歩むことが宿命である以上は。
「―グリムジョー」
帰ろうとした背中に思わず呼び掛けて、欝陶しそうに振り向いた彼の服を掴んだ。
「…悪い。」
何に対しての謝罪なのか自分でも判らなかったけれど、グリムジョーは嬉しそうに笑った。
「なんだ、死なないで!!とかじゃねーのかよ」
「…いや、そこはどうでもいい」
「そんな意地張るなよ」
張ってない、と心の底から思ったけれどどうせ最後かも知れないのなら黙っておこうと思った。
「俺が黒崎を好きってことは―つまりてめぇを好きだってことだぜ?」
「だから、俺は一護じゃな…」
「―もう何も言うんじゃねーよ」
そう言ってぎゅっと抱き締められてコイツはこんな男だったっけ、とかぼんやり思った。―そんなこと言われたら、まるで本気で愛されているみたいじゃないか。
それでもこの手が、この声が一護だったらいいのにと―
彼の腕の中でただそれだけを考えている自分は罪だろうか。
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