―逃げるだけ無駄だった。
足なら負けないと思ってはいたけれど、冷静になってみると持久力がないぶん自分の方が格段に不利だということに―追い付かれてから気付いた。
「恋次」
低い声で名前を呼んで、一護は恋次の腕を掴んだ。こうなった以上はもう本気で抵抗しない限り振りほどくことは不可能だ。―そのくらい、力の差はあった。今だってこちらは全力で逃げたのに一護は息ひとつ乱していないし。
恋次は反射的に掴まれた腕をぶんぶんと振って脱出を試みたけれど、当然ながらそんなことで振り解けるほど相手は甘くなかったし―そもそも彼に触れられて本気で振りほどく気になんかなるはずもなかった。
その手が少し触れただけで他愛のない自分は全身の力が抜けて―逆らう気なんてまるで蒸発でもしたみたいに消え失せてしまう。
いつもそうだ。―最初からそうだった。
「ちゃんと説明しろよ。いきなり別れるとか意味判んねーし」
一護は本気で怒っているようで恋次の腕を掴んだままいつもの強い瞳で自分を睨み付けた。
彼は対峙している時でも行為の真っ最中でも―いつでもその強い光を纏った目で自分を真っ直ぐ見ている。その目がとてもとても好きで―このまま殺されたいと何度か本気で思った。
「…そのまんまの意味だけど」
「嘘つけ!!!おまえが俺のこと大好きなことくらい見てりゃ判んだよ!!!」
確かに恋次は一護のことを大好きどころかむしろ死ぬほど好きだった。―もちろん今も。
「…俺だっておまえが本気で別れたいなら少しは考えるけど。…でもおまえ俺のこと」
「…うん。一護のこと大好き」
逃げられないようだと気付いたので、恋次は本当のことを言った。
まぁ元々あの黒崎一護を騙せるなんて大それたことは考えちゃいない―引き延ばしたかっただけだ、1分でも1秒でも1秒の100分の1の間でもいいから。
一護は多少なりとも動揺したのかその拍子に掴まれていた腕の力を少しだけ緩めた。
恋次はその隙にするりとそれを解いてから、追い詰められたフェンスに寄り掛かった。がしゃん、という金属音が耳に響く。
「だけど…どうせおまえはいつか、俺を捨てるだろ…?」
「―は?」
一護は眉間に皺を寄せて恋次を凝視した。
「その前に…傷が浅いうちに、切り捨てたかっただけ…」
「…」
「俺はおまえに触れれば触れるほど好きになってくんだよ。キスした分だけ、抱かれた分だけ―‥これからも多分もっと好きになる。これ以上触れたら、もう絶対離れたくねーって思っちまう」
「…」
「それにもしもバレて…俺が処刑とかされんのはともかく、おまえが死んだりしたら…俺正気じゃいられねーし…。万にひとつ別れなかったとしても、いつかは絶対離れなきゃいけねーし…」
「…」
「ついでにおまえ誰にでも優しいから嫉妬すんのもぶっちゃけ疲れたし」
「…」
「‥一護。今は違ってもいずれおまえは絶対にこっちの世界を選ぶ時が来んだよ。…だから俺なんかとじゃ」
「…おまえ、なに言ってんの??」
しばらく恋次の話を聞いていた一護は酷く真面目な顔をして自分の後ろのフェンスに両手をついた。
そんな目で見られたら骨まで溶けてしまいそうだと本気で思った。
「一護こそ、俺の話…聞いてた…?」
「聞いてたよ」
一護はそのままゆっくりと顔を傾けると、反射的にギュッと目を眩った恋次の口唇を塞いだ。
「これ以上俺に触れたらもう離れられなくなる―‥だったっけ?」
「―!」
「お望み通り離れられなくしてやるよ」
一護は本気で楽しそうに笑った。
「漫画の女みたいなこと言うから、てめーにはほんとびっくりするぜ」
「あのなぁ、俺は本気で―」
「いいか?俺が選んだのはおまえだ。どっちの世界とかじゃなくておまえだ。意味判るか?」
「…」
恋次が呆然と首を振ると、一護は呆れたみたいに溜め息をついた。
「俺は一生別れる気も手放す気もねぇってことだ」
「でも…」
「ウルセーよ。逃げんな」
「!!」
もう一度噛み付くみたいに口付けられて目が回る。続けざまに首にもキスを落とされてびくんとした。抱かれ慣れた身体は持ち主の意思を無視して勝手に反応する。
「―恋次、俺から逃げんな」
「いつか…いつか俺から逃げんのは一護の方だろ…!」
泣きそうになりながら彼の背中に腕を回すと、折れそうなくらい抱き締められた。
「逃げねーって…馬鹿だな…」
きつく抱かれながら零れ落ちた涙をペロリと舐められて―その時ようやく気付いた。
―あぁ、どちらにしてももう遅かったのだ。
手遅れというやつはとっくに訪れていて、自分はもう一護なしでは生きてゆけない。
その身体を繋ぐ度に指の先まで侵食されて、毒が回るみたいに一護の色に染められた。
もうどちらにしても、彼から離れたら死ぬだろう。
「…もし俺が逃げようとしたら殺してもいいから。それならいいだろ?」
宥めるみたいに言われたけれど恋次は泣きながら首を振った。
「一護を…殺すなんて出来ないっ…!!」
「あ、そ。ほんと困ったやつだなおまえ。じゃあそん時は俺自分で死ぬよ。そのかわり…おまえが逃げようとしたら殺すからな」
「…それは、ぜんぜんオッケー‥まぁ、絶対ないけど」
涙を拭いてちょっと笑ったら、一護も笑ってもう一度自分のそれにその口唇を重ねた。
「…」
結局、目を覚ましたのはいつもの一護のベッドだった。
泣きながら抱かれたからカラダ以上に目が腫れて重かった。
わけの判らない理由で相手を振り回して、自分でも馬鹿馬鹿しいことをしているという自覚はあったけれど―恋をするということはこういうことかも知れない。
この狭いシングルベッドで…最初は一緒に寝ることすら不可能に思われたのに、結局何度もそこで抱かれて―彼の腕に抱かれて眠った。そんな風に少しずつ、不可能が可能に変わって行けばいいと思う。
一護にはそういう前を向くための不思議な力が備わっていて―最初はそういうところに、ただ憧れてた。ずっとそばで見ていたいと夢でも見るみたいに願ってた。
そんな淡い感情は彼に触れられた途端、シャボン玉が弾けるみたいに爆発して恋になった。
「…起きた?」
特に何を見るわけでもなくただぼんやりしていると一護がカップを持って部屋に入って来た。
「ほら、ココア」
黙って受け取った温かくて甘い飲み物に口を付ける。コーヒーなんて飲めないしカフェオレでも駄目だと言ったら、一護は仕方なく毎回これを出してくれるようになった。
飲むのは一護の家の中でも自分だけらしいから悪いなぁと思うけれど、自分のためにこれが彼の家に常備されていると思うと気分が良かった。
「…ごめん」
とりあえず謝ったら、一護はいいよ、と恋次の頭を撫でた。
「そーゆーすぐ拗ねて泣くとこも好きだからいーんだよ。でもさ、謝んのはお互い最期だけにしよーぜ?」
「さいご…」
「そう。本当に相手を裏切って死ぬときだけ―」
一護はカップに手を掛けて恋次の口唇を塞いだ。舌を絡めると当たり前だけれど今飲んだココアの味がしてそれは酷く甘かった。
「―甘ッ!!」
思いっきり顔を顰めた一護がおかしくて、恋次は笑った。
一護はちょっとムッとしたようで笑うなよ、とか言った―と思ったらそのまま抱き締められて真後ろに押し倒された。
「恋次が甘いからいけないんだぜ…?」
「…俺のせいにばっかすんなよ。言いたいこと言いやがって」
「ほら、また拗ねた」
一護はにやりと笑って恋次の指に自分のそれを絡めた。都合のいいように言いくるめられていると思ったけれど、彼に抱かれる誘惑には抗えない。
こうやって朝も昼も夜も彼に抱かれて、自分の首に掛かったこの愛という名の鎖はますます重く幾重にも巻き付くばかりで―いつか必ずこの首を落とすだろう。
「好きだ…恋次…」
でもそんな言葉が聞けるならそれでも良かった。
背負った十字架は余りにも甘すぎて―それが罪だということすら忘れさせた。
ココアよりもずっと、甘い甘い業の味―
***